この夏の恋はAから始まる! 「acuto・アクート」

鋭く、強烈に、あの声は私の夏を貫いた
八月の海は、夕方になっても昼間の熱を抱えていた


砂浜に敷かれた木製のステージでは、名も知らないバンドが次々と演奏し、観客たちは潮風と音楽に身を任せていた

美月は、会場のいちばん後ろに立っていた

手には、少しぬるくなったレモンソーダ
首には、友人から無理やりかけられた青いタオル

けれど、心だけはどこにも参加していなかった

三週間前、五年間つき合った恋人から別れを告げられた

「美月といると安心する。でも、もう恋じゃない気がする」

そう言われた

安心と恋は、同じ場所には住めないらしい

彼は申し訳なさそうに目を伏せたけれど、美月には、その優しささえ残酷だった

泣いたのは最初の三日だけだった
そのあとは仕事へ行き、食事をし、眠り、誰かに会えば笑った

傷ついていることを忘れたふりなら、昔から得意だった

今日の音楽フェスも、大学時代の友人、奈緒に誘われて来ただけだった

「失恋した夏こそ、海と音楽やで」

奈緒はそう言って笑った

けれど会場に着いて一時間もしないうちに、奈緒は知り合ったばかりの男性たちと別のステージへ行ってしまった

一人になった美月は帰ろうとした

そのときだった

ステージの照明が落ちた

海から吹いてきた風が、美月の髪を揺らした

薄暗い舞台の中央に、一人の男性が現れた
白いシャツの袖を肘までまくり、古いアコースティックギターを抱えていた

司会者が名前を紹介したけれど、風とざわめきに消されて聞こえなかった

男性がマイクの前に立つ

静かな前奏が始まった

そして、最初の一音が響いた瞬間、美月の呼吸が止まった

鋭く、細く、それでいて胸の奥までまっすぐ届く高音

忘れるはずがなかった

十五年前、美月が毎日のように聴いていた声だった

男性が顔を上げる

夕日を背にした横顔
少し長くなった髪
昔よりも痩せた頬

それでも、美月にはすぐに分かった

「……蓮」

高校二年の夏、何も言わずにいなくなった初恋の人だった

相原蓮

同じクラスで、放課後になると音楽室の隅でギターを弾いていた少年

美月は吹奏楽部でフルートを担当していた
蓮は部員ではなかったが、誰もいない音楽室へ勝手に入り込み、古びたピアノやギターで自作の曲を弾いていた

二人が親しくなったきっかけは、音楽用語辞典だった

ある日、美月が楽譜を広げていると、蓮が横からのぞき込んだ

「acutoって知ってる?」

「アクート?」

「イタリア語。鋭いとか、強烈なとか、高音のって意味」

「今の私の音、鋭すぎた?」

「逆。もっとアクートで吹けばいい」

蓮はそう言って、美月のフルートを指さした

「美月は、きれいに吹こうとしすぎる。音が傷つくのを怖がってる」

意味が分からず、美月は笑った

「音は傷つかないでしょ」

「傷つくよ。だから、人の心を傷つけられるんだ」

変なことを言う人だった

けれど蓮の言葉は、不思議と忘れられなかった

二人は夏休みの間、毎日のように音楽室で会った

蓮がギターを弾き、美月がフルートを吹く

窓の外では蝉が鳴き、校庭からは野球部の声が聞こえていた

二人は恋人ではなかった
好きだとも言わなかった

ただ音を重ねた

それだけで、世界に自分たちしかいないような気がしていた

八月最後の日、蓮は美月に新しい曲を聴かせる約束をしていた

けれど、彼は来なかった

翌日、担任から蓮が転校したと聞いた

父親の仕事の都合だと説明されたが、詳しいことは誰も知らなかった

連絡先も分からない
住所も知らない
当時は今ほど簡単に誰かを探せる時代ではなかった

美月の初恋は、始まる前に終わった

別れの言葉さえないまま

その蓮が今、目の前で歌っている

美月は動けなかった

曲の歌詞は、夏の終わりに置き去りにした少女のことを歌っていた

待っていてとは言えなかった
忘れてくれとも言えなかった
だから、いつか届くように歌うしかなかった

それはまるで、美月に向けられた歌のようだった

そんなはずはないと何度も思った

けれど最後の高音で、蓮はまっすぐ客席の後方を見た

視線が重なった

蓮の指が、一瞬だけ止まった

歌声が、わずかに揺れた

演奏が終わると、拍手と歓声が上がった

美月は逃げるように会場を離れた

砂に足を取られながら、人気の少ない防波堤まで歩いた

会いたかった

ずっと会いたかったはずだった

それなのに、本当に会ってしまうと、何を言えばいいのか分からなかった

どうして黙っていなくなったの

私のことを忘れていたの

あの曲は私のためだったの

聞きたいことはいくつもある

けれど、十五年という時間の前では、どれも幼すぎる気がした

「美月」

背後から呼ばれた

振り返ると、蓮が立っていた

ステージの照明ではなく、街灯の白い光に照らされた顔は、記憶よりも大人になっていた

「やっぱり、美月だった」

蓮は少し笑った

その笑い方だけは昔と同じだった

美月は返事をしなかった

蓮との間に、波の音が何度も打ち寄せた

「久しぶり」

蓮が言った

「十五年ぶり」

美月は答えた

自分でも驚くほど冷たい声だった

「そうだね」

「久しぶりで済むんだ」

蓮が目を伏せた

美月は、胸の中に残っていた高校生の自分が突然暴れ出すのを感じた

「何も言わずにいなくなったくせに」

「ごめん」

「新しい曲を聴かせるって言った」

「覚えてる」

「私はずっと待ってた」

声が震えた

五年間つき合った恋人に別れを告げられたときでさえ、こんなふうには泣かなかった

「次の日も、その次の日も、夏休みが終わってからも、音楽室に行った」

蓮は何も言わなかった

「せめて、さよならくらい言ってほしかった」

「言えなかった」

「どうして」

蓮は海を見た

「父が逮捕された」

美月は言葉を失った

蓮の父親は、小さな会社を経営していた
美月も一度だけ、学校の前に迎えに来た姿を見たことがあった

「会社の金を不正に使ってた。家にも記者が来て、母と夜中に町を出た」

蓮は淡々と話した

「誰にも言うなって母に言われた。学校にも、友達にも。全部なかったことにして、消えるしかなかった」

「でも、私には……」

「美月にだけは言おうと思った」

蓮の声が低くなった

「何度も電話しようとした。でも怖かった。父親が犯罪者だって知られたら、美月まで俺を嫌うんじゃないかって」

「嫌わなかった」

「高校生の俺には、信じられなかった」

蓮は小さく笑った

「それに、待っていてって言えるほど、自分に自信がなかった」

美月は唇をかんだ

怒りが消えたわけではなかった

けれど十五年間、自分だけが置き去りにされたと思っていた
蓮もまた、あの夏から逃げ続けていたのだと知った

「今日の曲」

美月は尋ねた

「誰のことを歌ったの?」

蓮はすぐには答えなかった

やがてギターケースを開け、中から一枚の古い楽譜を取り出した

紙は黄ばんでいた

右上に、鉛筆で文字が書かれている

『acuto』

その下には、小さく『美月へ』とあった

「十五年前に聴かせるはずだった曲」

蓮が言った

美月の視界が滲んだ

「ずっと歌ってたの?」

「歌えなかった。完成しなかったから」

「今日は完成してた」

「今日、美月を見つけたから」

その言葉は、あまりにも遅く、あまりにもまっすぐだった

美月は泣きながら笑った

「ずるいね」

「うん」

「十五年も待たせて、そんなこと言うんだ」

「本当に、ごめん」

その夜、二人は海辺を歩いた

離れていた十五年間を、すべて埋めることはできなかった

蓮は母親と何度も住む町を変え、高校を中退して働きながら音楽を続けた
二十代の半ばに歌手を目指したが、売れず、今は音楽講師をしながら小さな会場を回っているという

美月も自分のことを話した

大学を卒業し、広告会社へ就職したこと
何度か恋をしたこと
最近、長くつき合った人と別れたこと

「結婚すると思ってた?」

蓮が聞いた

「たぶん。でも今思えば、結婚したかったというより、失敗したくなかったのかもしれない」

「美月らしい」

「どういう意味?」

「きれいに吹こうとしすぎる」

美月は足を止めた

蓮も立ち止まる

「まだ覚えてるの?」

「忘れたことないよ」

その夏、二人は何度も会った

蓮の演奏がある日は、美月が客席に座った
何もない日は、海辺の喫茶店で話した
高校時代のように、音楽室の代わりに小さな貸しスタジオへ入り、蓮のギターに合わせて美月がフルートを吹いた

長い間しまい込んでいたフルートは、最初は思うように鳴らなかった

「下手になった」

美月が笑うと、蓮は首を振った

「前よりいい音になった」

「慰め?」

「傷ついた音がする」

「それは、いいことなの?」

「うん。やっと人の心を傷つけられる」

二人は恋人になった

けれど、未来については話さなかった

話せば、終わりが近づく気がした

八月二十七日、蓮は美月を海の見える丘へ連れていった

夕焼けの中、蓮は言った

「九月に日本を出る」

美月は黙っていた

驚かなかった
どこかで、そんな気がしていた

「ベルリンの音楽学校で学ぶことになった。奨学金が出る。三年は帰れないと思う」

「いつ決まったの?」

「春」

「フェスで会う前?」

「うん」

「最初から、夏だけだったんだ」

蓮は答えなかった

美月は海を見た

泣きたくなかった
引き止めたくもなかった

十五年前の自分なら、行かないでと言ったかもしれない

けれど今は分かっていた

誰かを愛することと、その人の人生を自分のそばへ縛ることは違う

「行ってきて」

美月は言った

「美月」

「今度は、黙っていなくならないんでしょう?」

「毎日連絡する」

「毎日は無理だよ。時差もあるし、忙しくなる」

「じゃあ週に一度」

「約束すると、守れなかったとき苦しくなる」

蓮は困ったように笑った

「じゃあ、どうすればいい?」

美月は少し考えた

「私のために曲を書かないで」

「え?」

「今度は、自分のために音楽をして」

風が二人の間を通り抜けた

「私も、自分の人生を生きるから」

蓮は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった

代わりに、美月を強く抱きしめた

その腕の中で、美月は初めて泣いた

悲しいからではなかった

十五年前に止まった時間が、ようやく動き出したからだった

蓮が出発する日、美月は空港へ行かなかった

見送りに行けば、きっと最後まで笑えないと思った

代わりに、朝早く海へ行った

夏の音楽フェスが行われた砂浜には、もうステージも人影もなかった

美月はケースからフルートを取り出した

そして『acuto』を吹いた

鋭く、強烈に

高い音は朝の海を渡り、空へ吸い込まれていった

演奏を終えると、スマートフォンが震えた

蓮からのメッセージだった

〈行ってきます〉

美月は短く返した

〈いってらっしゃい〉

それだけだった

三年後、二人が再会することはなかった

蓮はベルリンから別の国へ渡り、音楽家として少しずつ知られるようになった
美月は会社を辞め、地域の文化事業を支援する仕事を始めた

連絡は、いつしか途絶えた

互いに別の人を好きになり、別々の暮らしを築いた

けれど美月は、あの夏を失敗した恋だとは思わなかった

夏が来るたび、ときどきフルートを吹く

以前より少し不器用で、少し強い音で

あの恋は、美月の人生に長く留まるために始まったのではない

眠っていた心を、鋭く貫くために始まったのだ

人は、すべての恋と結ばれる必要はない

ただ一度でも、その人に出会ったことで、自分の人生を恐れずに進めるようになったのなら

その恋は終わっても、消えてはいない

美月は目を閉じ、あの夏の高音を思い出す

胸の奥には、今もかすかな痛みがある

けれど痛みの向こうには、海の青さと、夕日の赤さと、蓮の声がある

それはもう悲しみではない

人生で一度きりの、鋭く強烈な贈り物だった

月星座からの小さなメッセージ

この夏の恋語りは、月星座が火の星座(牡羊座・獅子座・射手座)の人に、特に読んでほしい物語です

心を鋭く貫くような出会いも、思いどおりにならなかった別れも、いつか自分らしく歩き出すための情熱に変えていける人たちだから

もちろん、ほかの月星座の人にも、忘れられない恋を「悲しい過去」ではなく「人生を動かしてくれた贈り物」として抱きしめたい夜に、そっと読んでもらえたらうれしいです

この夏の恋は、Aから始まった

acuto――アクート

傷つくことを恐れていた私の心を貫き、もう一度、自分の人生を始めさせる音から


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